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100年経営の会シンポジウム 不変と革新長寿経営の秘訣を学ぶ

 
100年経営の会は10月24日、東京・飯田橋のホテルグランドパレスでシンポジウム「不変と革新 長寿経営の秘訣(ひけつ)を学ぶ」を開いた(日刊工業新聞社共催、モノづくり日本会議協力)。北畑隆生同会会長のあいさつに続き、中村胤夫三越元社長、川田達男セーレン会長兼社長、服部重彦島津製作所会長の3氏が登壇し、それぞれの地域とともに歩み長い歴史を刻んできた企業の経営理念を披露した。300人の来場者からは各氏に経営論についての質問があり、あらためて長寿企業の重みを実感する場となった。

あいさつ

 
長寿企業の条件理論化し発信  日刊工業新聞社社長井水治博

100年経営の会は皆さまの御賛同をいただき昨年10月に発足し、1年が経過いたしました。事務局を務めます日刊工業新聞社も特に力を入れております。わが国に創業から長い年月にわたり持続発展してきた長寿企業が多いのはなぜか、長寿企業が育つ条件は何か、長寿企業の秘訣を理論化することを通じて、わが国の企業が長年培ってきた経営の優れた点を見つめ直し、広く発信していこうと考えています。
 
今回のシンポジウムは当会活動をリードいただいている北畑隆生会長にお話いただくほか、会員企業トップの方などをお招きしました。永続してこられた各社の経営理念や歴史の転換点、イノベーションの手法などを伺うことから、長寿経営のあり方を探っていくものです。いずれの皆さまも経営者として高い御見識をお持ちです。
 
また御来場の皆さま、本会をここまで導いていただきました皆さま、ご支援をいただきました皆さまに重ねて感謝の意を申し上げます。


あいさつ&講演

創業精神守り経営も革新  100年経営の会長(元経済産業事務次官)北畑 隆生氏
 

100年経営の会は日刊工業新聞社の協力、経済産業省の後援も得て発足させていただいた。いろいろな統計があるが、世界中で100年以上存続している会社というのは4万社あるともいわれている。その半分以上が日本企業だともいう。長寿であるというのは日本企業の一つの特色かもしれない。平均寿命も長くなっているが、日本は世界一の長寿企業大国であるといえる。
 
例えば米国では長寿企業が育たない風土だと思う。ある日本企業の経営者が米国でわが社は3代続いているとスピーチしたところアメリカ人はケラケラと笑ったという。彼らにしてみれば3代でおよそ100年続いたなら、米国では大企業に育っているか倒産しているかどちらかという。なぜ日本では中小企業のまま100年続くのかがわからないのだろう。企業の存続に対する考え方は、やはり日米で異なる。米国では企業経営が行き詰まったなら清算して再生するのだろうが、日本企業の場合そもそも倒産はいけない、会社は長期的に存続しなければと考える。それで長寿企業の数にも差が出るのだろう。
 
昨年3月に東日本大震災が起き、100年に一度の大危機と言われた2008年のリーマン・ショックをある意味上回る危機が日本を襲った。3年ごとに100年に一度の危機が起こるのでは大変だ、経営者の方々は自信を失っているのではないかという問題意識が起きた。一方で100年以上の歴史がある会社のことを考えると、そういった危機を乗り越えてきているからこそ存続しているといえる。そこでそういった企業のトップにお話を伺い、今回の危機を突破するヒントをもらおうというシンポジウムを昨年8月に開催した。昨年100周年の天坊昭彦出光興産会長(当時)、茂木友三郎キッコーマン名誉会長、佐藤廣士神戸製鋼所社長の皆さまから貴重なお話をいただいた。
 
また地方でもシンポジウムを開こうと、3月には大分県臼杵市で地元の長寿企業をお招きして開催した。その一つフンドーキン醤油に伝わるお客さまを大切に良いしょうゆを作りなさい、従業員を大切になさい、地域社会に迷惑をかけてはいけませんよといった社是には感銘を受けた。
 
当会の顧問もお願いしている久保田章市法政大学教授によると、100年企業の特色として、社是や創業の精神を非常に大切にしていること、短期的な利益の追求より長期的な企業の存続を重視していること、古くからの大切なことは守りながらも経営の革新も行っていること―を挙げている。こういった持続的成長を目指す考え方は必ずしも日本企業だけのものではない。海外でも優れた企業の例がいくつもあるはずだ。
 
こういった問題意識を持って100年経営の会を発足させた。久保田先生のほか学会の協力、経済産業省の若手官僚らも招いて研究会を既に発足させている。理論的に確かなものを構築して世界に通用する日本発の企業理念として、世界に向けて普及していきたいと考えている。また長寿企業を目指す会社の交流の場を設け、互いに切磋琢磨(せっさたくま)できるようにしていきたい。


講演

日本橋と三越 江戸時代から地域と共生 
三越元社長(名橋「日本橋」保存会会長)中村 胤夫氏
 

日本橋は1603年に徳川家康が江戸開封と同時に作り上げた橋。日本橋と三越の関係はというと時代が下って、創業者・三井高利が江戸本町一丁目、今の日本橋本石町、日本銀行新館あたりに間口一間半の店を借り「越後屋八郎右衛門」ののれんを掲げ呉服店を開いたときに始まる。常に日本橋とその地域との共生で育ってきた、あるいは商売をさせていただいていたと感じている。
 
火事と喧嘩(けんか)は江戸の華というが1657年の明暦の大火後に、大規模な土木工事が行われ、その結果家財や生活用品の需要が生まれた。そしてそれまでの武士中心から、町人の懐も豊かに。そして町人、つまり大衆にも高根の花と言いながらも呉服が手の届くものとなった。売り方も得意先に反物を持っていき注文を取っていたやり方から、「店先現銀無掛値」(たなさきげんきんかけねなし)ということで店頭で現金、なおかつ定価販売を始めた。普通の人でも買える明朗会計の商売となった。これは欧米にも先駆けている。
 
また欲しいだけを売る「切り売り」や地方の商人にも呉服を卸す「諸国商人(あきんど)売り」も始めた。資金の回転、商品の回転が早まり、今でいう新しいマーケティングの導入となった。
 
一方で高利は従業員の教育に力を入れた。「定(じょう)」という服務規定にいろいろな決め事を明記して、毎日厳しく指導し、節約の精神も徹底させた。この越後屋の呉服は長らく続いたが、やはり常に大衆目線で正直な商売を続けたためだろう。倹約によって利益を生み出している。三井家の人々は総じて質素で、それが長続きした理由だといわれている。
 
明治維新の際は薩長に資金援助し、新政府設立を支援した。明治に入り三井銀行が設立される一方で、時代の流れに乗っていない呉服部門は切り離すよう政府から命が下る。苦慮した三井家は三井の三と越後屋の越をとって「三越」を設立する。切り離された三越は三井呉服店という合名会社方式でグループに復帰する。そして三井銀行副支配人から三井呉服店改革のために派遣されたのが近代百貨店の生みの親とされる日比翁助だ。商業はいやしい職業という意識を払しょくし、番頭にも利益を配分するなど改革を進めた。サムライの魂で商売をしようという「士魂商才」を呼び掛け従業員のモラル向上に結び付けた。
 
そして1904年(明37)「デパートメントストア宣言」を発表する。販売する商品の種類を増やし、米国のデパートメントストアを目指した。早速欧米にも視察に出向き英ハロッズにも学んだ。児童博覧会といった文化催事による社会貢献につとめたほか、店員慰労大運動会など社員の気持ちを一つにするためのいろいろな手を打った。1911年(明44)にはわが国最初の洋式劇場、帝国劇場が落成し、三越は内装や緞帳(どんちょう)など一切を調整し、「今日は帝劇、明日は三越」という流行につながった。消費者目線ですべてを解決していくところ、三井高利と日比翁助には相通じるものがある。これらの考えは今にも継承されている。
 
日本橋に話を戻すと、昨年日本橋は石の橋となって100年を迎えた。1963年(昭38)に首都高速道路が川の上にできたが、景観や都市の環境の面からも高速道路は取ってしまった方が良いと考え要望している。名橋「日本橋」保存会は1968年にでき、以来三越の社長が代表を引き受けている。三越は日本橋とともに、地元と共生して商売をさせていただいてきた。

ローバリゼーション『企業は変われるか』100年企業の挑戦 
繊維技術の可能性を追求
 セーレン会長兼社長 川田 達男氏
 

グローバリゼーションとはいかに世界へ通じる企業へと挑戦していくかということ。今年で124年目を迎える企業で、たいへん厳しい繊維産業の環境の中、生き残りをかけて頑張っている。
 
1960年代まで日本の繊維産業は基幹産業として発展していった。私も62年入社で良い環境の中仕事をしていた。ところが71年のニクソン・ショックを境に、オイルショック、第2次オイルショック、プラザ合意、円高も進み繊維産業は斜陽となっていく。創業から99年目、100年を目前にした87年には企業の存続の危機に立たされた。それまでの人事は年功序列だったが突然私のところに社長のバトンが飛んできた。47歳と役員で最年少だった。
 
71年以降我々が経済ショックと考えるのはちょうど10回で、4年に一度という感覚だが、これからもいろいろなものが出てくると思う。そうした中、日本市場のアパレル製品の96・2%は輸入品と、国内繊維産業は壊滅的状況となっている。こんな環境の中で繊維産業として本当に生き残れるのか。まずビジョンとして繊維産業の「非常識」に挑戦しようと考えた。繊維産業の技術を、いわゆるこれからの成長産業、先端産業といった「非衣料」に展開できないかということだ。
 
それからアナログ産業の際たるものであった繊維産業にITをどれだけ取り入れられるかが21世紀の生き残りにつながると考えた。
 
また繊維産業の常識では、企画、原糸の製造、織・編、加工、縫製、販売それぞれが別の業界だったが、常識を破ってすべての工程を内製化しようと考えた。それまでの染色加工から一貫体制にもっていくまでで、一番苦労したのが原糸製造の工程だ。当時合繊8社と言われ、そこになかなか新規参入は難しかった。糸から全部つくるという夢も、念じれば必ず実現するというか、カネボウ(当時)の繊維部門を誰も買い手がいなかったため継承した。業界や社内からも、セーレンがそれを買収することは驚かれたが思い切ってやってみた。そしてわれわれの一貫加工の中の原糸工程ということで、2年間で立ち直った。
 

 

私どもの経営理念はすべての社員が共有できる意識「のびのび・いきいき・ぴちぴち」を25年間続けている。自主性を持ってのびのびと、責任感を持っていきいきと、使命感を持ってぴちぴちと毎日の仕事に挑戦しようということだ。それまでは会社が社員を変えるという管理手法だったが、自主性・責任感・使命感を具体化して社員が会社を変える、活性化していくように転換していった。組織を挙げて会社を変革しようということで行革推進本部を作った。地元福井県には東尋坊があるが、崖っぷちというか後がない「東尋坊作戦」だったともいえる。
 
会社を変えていかなければならないという中で、変えてはならないこともある。そういった成長の遺伝子、コア・コンピタンスというか我々だけが持っているものがあるはずだ。それは絶対に繊維の技術の延長線以外はやらないということ。繊維にはとても大きな可能性があり、自分たちでも驚くほどいろいろな市場に向けて提案ができている。例えば自動車の内装材は世界市場の15%くらいのシェアとなっている。また電気自動車などの電池から出る電磁波のシールドとして鉄板の代替として、繊維と金属を複合したものを開発している。そのほか「セリシン」という繭から出るタンパク質などの研究も進んでいる。こうした中から新規事業も創り、21世紀を生き残っていきたい。

京都企業の生い立ち トップの決断の積み重ね 津製作所会長 服部重彦氏
 

京都は歴史の街であり、文化の街。しかし実は最大の産業は観光でなく、やはりモノづくりだ。ただ大きな化学プラントも鉄鋼プラントもない。空気をきれいにした中での産業が自然に芽生えている。現在はITを中心とするハイテク企業が大きなウエートを占めている。京都は多くのベンチャー企業が育ち、デバイスなどで世界のIT産業をけん引するハイテクの街と言われている。一方には今でも陶芸、漆器、織物、和菓子などがたくさん残っており、全く異なった産業が一つの地域に、それも高いブランドと高いクオリティーで成長を継続しているという変わった街だ。
 
京都には創業100年以上の長寿企業が1700社ある。形態は多岐で和菓子、織物、お茶の道具、清酒、また料亭も多い。例えば京都の経済界で正月に皆が集まると、こちらに年商2000万円の会社、あちらに1兆円の企業の社長さんと一堂に会して会合するといったユニークな基盤がある。
 

 

京都特有の企業文化を考えると、まず「文化の伝承」がある。伝統産業をベースに新しい産業も生まれているということ。それから「進取の気性」。オリジナリティーを非常に大切にし、すみ分けて発展している。また独創技術を追求し事業を集中する「深掘り」も特徴だ。さらに「挑戦する勇気」。戦後の企業はほとんどベンチャーの雄であり、日本でビジネスせず海外で展開する企業もたくさんある。そして京都は学生の街でもあり「産学連携」は大きなキーワードだ。
 
例えば深掘りは、いい言葉で言えばこだわりということ。うちの場合は医療機器と計測機器にこだわってやっている。ベンチャー企業について言うと、これまでベンチャーのブームが何回かあったが、今の京都の悩みは新しいベンチャーが育っていないことだ。今後の京都の課題は産学連携も含めて、どういうベンチャーをインキュベートしていくかということだろう。
 
島津について言うと創業が1875年(明8)で、初代の島津源蔵が木屋町二条南で起業して産業界に打って出た。さらに科学技術に貢献しようと、学生が使ういろいろな理化学機器を作り始めた。二代目源蔵は日本で初めての医療用レントゲンを開発するなど「日本のエジソン」と呼ばれた。バッテリー部門を、当時としては珍しく分社創業もしている。創業以来の精神は「科学技術の発展で社会に貢献する」ということ。
 
世界中にある連結企業や代理店なども含めると約2万人が事業を支えている。企業が継続してこそ、人生を会社にかけた多くの社員を守れると考える。しかし会社とは大きな危機に何度も直面することがあるもの。そこで重要なのは一つはトップの決断の積み重ね。もう一つは危機をはね返そうとした社員の強い思いと行動力。そして創業以来の経営基盤をベースとした事業展開も重要だ。
 
当社を例にとると137年の歴史で何回か大きな危機があった。1回目は関東大震災。この時トップはひるむことなく海外に進出した。2回目は75年でちょうど創業100年の時。円高、オイルショックで苦しんだ。損益分岐点を下げるために社員がまい進し、コストダウンにつながり業績を大きく伸ばした。3回目は2001年。会社が伸びている間に在庫が大きくなり、これを全部落とそうとして大きな赤字を計上した。しかしそのおかげで順調に利益も回復した。
 
企業を継続することは大変な価値だ。そのバリューを一番よく知っているのはやはり社員だろう。だから社員の顔を間近に見ながら、もちろん新しいことへの挑戦を並行して続けていくことが大変重要だと考えている。


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