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100年経営シンポジウム ~危機克服を考える~

 
会場には満席となる300人超の聴講者が訪れた
 日刊工業新聞社は8月10日、東京都千代田区のホテルグランドパレスで「100年経営シンポジウム」を開いた。全国の長寿企業が集う「100年経営の会」の発足に向けたシンポジウムで、テーマは「危機克服を考える」。同会会長に就任予定の北畑隆生元経済産業事務次官、天坊昭彦出光興産会長、茂木友三郎キッコーマン名誉会長、佐藤廣士神戸製鋼所社長が登壇し、持続的成長を実現する経営戦略などについてそれぞれ講演した。会場には300人を超える聴講者が訪れた。

主催者あいさつ

今こそ産業界の力を結集

井水治博氏
日刊工業新聞社社長

 東日本震災の影響でわが国産業界は甚大な被害を受け、国難とも言える試練を迎えています。震災の直接的な被害に加え、急激な円高の進行、世界同時株安の不安も高まってき]ています。ここは何としても産業界の力を結集し、この試練を乗り越えていかなければなりません。
 わが国産業界はこれまでも敗戦に伴う壊滅的な打撃や多くの天災、2度にわたる石油危機などを克服し、奇跡的とも言える経済成長を実現してきました。その主たる原動力となったのは持続的発展を続けてきた長寿企業であり、その経営手法を手本にした新興企業群でした。
 そこで日刊工業新聞社は今秋に「100年経営の会」を立ち上げ、長寿企業を中心とした日本の優れた経営のあり方を体系化し、アジアをはじめ世界に向けて発信していきます。

あいさつ・講演

長寿企業の経営理念を世界に発信 ~大事なもの守りつつ変革~
 
北畑隆生氏
元経済産業事務次官

 日本は今内外二つの経済危機に直面している。一つは東日本大震災である。安心・安全な国、日本というイメージが大きく損なわれ、日本経済にボディーブローのように影響している。もうひとつは世界経済の変調に起因する異常な円高と株安である。この二つの危機を克服しなければならない。危機克服の方策を学ぶため、今回のシンポジウムは創業から100年以上存続し今なお発展を続ける長寿企業3社から講演者を招いた。関東大震災、金融恐慌、敗戦、占領政策、石油危機、バブル崩壊などの危機を乗り越えてきた企業のトップからその秘訣を聴くこひけつとにしたい。

 日本には経営の基本を「存続」に置く企業が多い。100年を超える長寿企業は国内で2万社を超え、世界の半分以上を占める。長寿企業には三つの特徴がある。一つは、創業の精神や社是、社訓を持ち、それを社員が尊重し、一貫した会社のアイデンティティーがあることである。二つ目は、顧客や従業員、地域社会など株主以外のステークホルダーにも十分な配慮をしていることである。そして三つ目が経営革新である。同じ商品、同じ事業では100年はもたない。理念や基本的な商品、コアとなる技術など大事なものを守りながら、一方で新事業に取り組み、経営の改革を続けていることが長寿企業の特徴だ。

 岐阜県に「創業450年」を誇る鋳物の中堅企業がある。1560年の桶狭間の合戦の時、雑兵に鍋を売ったのが会社の創業だそうで、鋳物技術を会社の基本に置いて発展してきた。今では精密治具・機械部品をつくる会社になり、ジェット旅客機の部品づくりにも挑戦するそうである。鋳物という基本技術を守りながら、経営革新を続け新商品に挑んでいる企業の例だが、同じような取り組みを続けてきた企業は日本に多い。

 従業員を大切にすることは、100年企業に限らず日本的経営の特色ともいわれる。「わが社の労働者」と言う社長はいない。「わが社の社員」と言うはずだ。従業員は会社の重要な構成員だということが「社員」という言葉に込められている。社長は「会社の長」であると同時に「社員の長」であり、社員を含めた企業集団のトップということだ。

 顧客、従業員、地域社会を大切にするのは日本だけかというとそうではない。欧州には、日本的経営に近い企業が多い。米国のエクセレントカンパニーを調べてみると日本と同じような経営理念を持つ会社が少なくない。例えばジョンソン・エンド・ジョンソンやIBMなどは顧客を重視し従業員や地域社会を大切にするなど日本企業との共通点がある。日本の長寿企業の誇るべき企業理念は世界に通用するグローバルスタンダードになり得るはずだ。

 株主重視の経営が重要であることは言うまでもないが、短期的な利益を追求することよりも、会社が長期に存続し発展することの方が本当の株主の利益につながるはずだ。

 今秋には「100年経営の会」が発足する。大学などとも連携しながら長寿企業の理念を学問的に整理し、それを世界に発信していきたい。

講演

出光の経営理念とその実践について ~社会的責任を果たすこと~
 
天坊昭彦氏
出光興産会長

 出光興産は6月20日に創業100周年を迎えたばかりで、100年企業としては全くの新人だ。1911年、出光佐三の個人商店「出光商会」として事業を始めた。石油製品・潤滑油などを販売し、海上で漁船に燃料を給油する仕事に乗り出した。海外にも事業を広げ、生産者と消費者に直結する「大地域小売業」を展開した。戦後は海外資産のすべてを失い、国内も統制でほとんどの事業が取り上げられた。残されたのは250万円の借金と1000人の社員のみ。そこに海外から800人の従業員が引き上げて来ることになったが、佐三は「出光は人間が資本だ。大事な資本が帰ってくるのにどうして首を切ることができるか」と一人も解雇しない方針を貫いた。

 戦後の復興が進むにつれ、工業生産も伸び、燃料の主役は石炭から石油に変わった。出光も石油精製設備の増強が必要になり、製油所を持たないと安定供給が困難な状況になってきた。日本の石油需要は73年と79年の石油危機で一時的に低迷した時期もあったが、おおむね右肩上がりに拡大し、出光も製油所の新設・増設、石油化学工場の新設など積極的な投資を行ってきた。

 その結果、80年代後半から90年代前半にかけて有利子負債が急増し、93年には2兆5000億円に達した。私は91年に取締役経理部長に就任し出光の財布を預かることになり、財布のひもを締めることが仕事になった。バブル崩壊後は金融環境が激変した。不良債権問題で銀行の融資基準は担保より融資先のキャッシュフロー、返済倍率、自己資本比率などの財務評価に変わる。出光は多額の借り入れで財務体質が悪化していたので、自己資本の増強が急務になる。これを乗り切って将来の資本調達手段を強化するには、パブリックカンパニーとして株式上場するしかないと私は考えていた。問題は、佐三は株式上場しないと明言し、出光ではこの問題に触れることがタブー視されていたことだ。

 しかし佐三は投機的な資本市場に上場し彼らの意向に経営が左右されるのは嫌だとは言っていたが、上場しないことが経営理念だとは言っていない。企業が事業を行うのは、社会的な責任を果たすためだ。社会的な責任とは、社員の雇用を守り、顧客や取引先の期待にこたえ、必要な設備投資を行い、事業を継続できる利益を得て、株主の期待にもこたえ、地域や社会、国家へ貢献できるような経営を続けることだ。よって上場することは出光の経営理念と矛盾しない。一方、出光が非上場にこだわって行き詰まれば、顧客や取引先に大きな迷惑をかけ、社員は路頭に迷う。顧客を混乱に巻き込み、日本のエネルギー安定供給に問題が起きるリスクは絶対に取ってはいけない。それこそ出光の経営理念に反することになる。

 こう考え、私はオーナーに上場を提案する決心をつけた。時間はかかったが、06年に東証一部に上場することができた。事業規模の拡大によって個人商店的な経営の限界が露呈したが、大きな事業改革などに対し、ピンチになると力を発揮して惜しみなく働く出光らしさによって何とか乗り越えられた。

 最後に今後日本が目指すべき方向について話したい。日本人の心をもって世界に貢献できないかと私は考えている。東日本大震災で被災された方々は自分自身が切羽詰まった状況に置かれたにもかかわらず、お互いに譲り合い、助け合うことで、何とか難局を乗り越えていこうという道を自然に選んだ。これこそ日本人がはぐくんできた心であり、日本の道徳観だ。日本のすぐれた技術を世界に広めるのと同時に、お互いに仲よく平和に暮らすために、日本人の心を世界に伝えていくことも、世界が抱える課題の解決に向けて日本が貢献できるやり方だと思う。

講演

キッコーマンのグローバル経営 ~社会との共存共栄が必須~
 
茂木友三郎氏
キッコーマン名誉会長

 キッコーマンは17世紀から千葉県・野田でしょうゆづくりを始め、現在は世界100カ国以上で製品を販売し、7工場が海外にある。売上高の海外比率は40%以上、営業利益は約60%を占める。千葉県のローカルなビジネスが国内のトップブランドになり、さらにそれがグローバルなブランドに育ってきた。

 千葉県・野田は江戸川と利根川に囲まれた三角州の中にある。当時の経営者が工場立地論を勉強したはずはないが、運良くこの地でビジネスを始めた。輸送手段として船を活用でき、大消費地だった江戸にしょうゆを大量に運べた。関東地域では原料の大豆、小麦、食塩が採れた。市場立地のみならず、原料立地の観点からも千葉県・野田は優れた生産地だった。この立地を生かし、数百年かけて日本でナンバー1のシェアを獲得した。

 グローバル化を進めたのは、昭和30年ごろにしょうゆの需要が伸び悩むという非常に大きな問題に直面したことがきっかけだ。戦後すぐは生産量が落ち込んでいたため、つくれば売れた。しかし、しょうゆの消費量は景気が良くても悪くても余り変わらない。生産量が戦前レベルに回復したため、後は伸び悩んだ。高度経済成長が始まるという状況の中で、売り上げの8割を占める主力商品の需要が伸びないのは一大事だった。

 そこで我々の先輩の経営者は二つの方針を打ち出した。一つは、しょうゆが売れないならば他のものを売る「多角化戦略」だ。もうひとつが「国際化戦略」で、57年(昭和32年)に米サンフランシスコに販売会社を設立した。販社を増やし、販売促進活動として店頭でのデモンストレーションやレシピ開発などを進め、現地での販売量は伸びていった。それでもまだ米国の事業は赤字だった。その解消に向け工場をつくる計画が出たが、時期尚早だという結論になった。最低経済単位のしょうゆ工場を動かすには、一定の販売量が確保されなければならない。だが赤字を解消するためには現地生産の必要がある。そこでしょうゆをコンテナ船で米国に運び、現地での瓶詰めから始め、赤字が少なくなってきた段階で最終的にウィスコンシン州に工場を建設することを決めた。

 この地は米国の交通の中心地で、全土にしょうゆを運ぶのに便利だった。大豆や小麦の入手も簡単だった。しかし、いよいよ工場を建設しようという時にまた問題が発生する。地元で反対運動が起こった。工場用地に選んだのが農地で、環境破壊の問題や農地を手放したくないという素朴な感情が反対の原因だった。これを説得するのに数カ月を要した。絶対に公害を出さず、環境を破壊しないことを約束した。さらに大豆・小麦を使うので「農家の皆さんと共存共栄できる」と強く訴えた。この訴えが功を奏し、現地の人たちは納得してくれた。

 この問題を乗り越える過程で大きな教訓を得た。「企業が永続的に存続していくためには社会と共存共栄しなければいけない」ということだ。現地企業と優先して取引する方針も打ち出し、現地の労働力の活用も決めた。さらに現地に溶け込むため、「日本から派遣する社員は分散して住み、固まって日本人コミュニティーをつくるな」と強く指導した。57年にマーケティングを始め、工場完成が73年。経営の現地化を推進した結果、現地生産をスタートして3年目くらいから米国事業は黒字化した。国際化を進める上で米国でのビジネスモデルを世界に展開し、現在は欧州やアジアでも工場を建設し事業を進めている。

 当社は300年以上の歴史の中でさまざまな問題を抱えてきたが、問題を解決しながらそれを次の発展のステップにしてきた。現在、日本は非常に大きな問題を抱えている。このピンチをバネにして、復活を目指さなければならない。

講演

阪神・淡路大震災をのりこえて-次の100年に向けて ~オンリーワンを徹底追求~
 
佐藤廣士氏
神戸製鋼所社長

 神戸製鋼所は1995年の阪神・淡路大震災で未曾有の大被害を受けたが、会社は100年を超えて継続し、今もなお歩いている。どのようにして危機を乗り越え、何がその一番大きな要因だったのかを考えてみたい。

 当社は1905年に鈴木商店の神戸製鋼所として創立。その後、1911年に鈴木商店から分離し株式会社神戸製鋼所が発足した。鈴木商店は総合商社であり、多士済々の会社が傘下に属していた。いろいろな事業を取り込んでいく商社の遺伝子が神戸製鋼にも受け継がれ、「多様性」「多角化」といった価値観が今も会社に残っている。

 神戸製鋼という社名から事業のマジョリティーを鉄鋼が占めると思われがちだが、鉄鋼の比率は40%。これに溶接やアルミ・銅を加えた素材系でも3分の2程度、残りは産業機械や建設機械など機械系の事業が占めている。多角化した事業では、経営資源が拡散しないよう、全てを大きくするのではなく、その中から特徴あるものを選び、それを成長させることも大事だ。当社ではずいぶん前からオンリーワン製品を志向していく活動を進めている。例えば鉄鋼事業では、弁バネの世界シェアは50%程度ある。鋳鍛鋼の船用クランクシャフトも世界の船の約40%が当社製品を使用している。チタンも国内で初めて実用化し、さまざまな分野で使われるようになった。建設機械では燃費、耐久性、乗り心地を追求した油圧ショベルとクレーンをつくっている。

 「オンリーワン」が神戸製鋼グループの中であらわれた背景には何があるのか。まず夢を持った技術者がいることだ。そして既にあるコア製品をユーザーとのやりとり、あるいはユーザーからの要望に沿って改善を重ねながら「オンリーワン」を称するモノに磨き上げてきた。さらに伝統ある製品がだんだんと陰りを見せてきた時に新しい分野に横展開してきたことだ。担当者の夢と、それをサポートする管理職そして、変革を認める経営陣がいないとオンリーワンは出てこない。


熱心に聞き入る聴講者

 歴史を振り返れば「山あり谷あり」で、どの企業でも「絶えず順風満帆」ということはない。当社は正確に言えば「山あり、深い谷あり」だった。94-95年に最も深い谷があった。それが阪神・淡路大震災の時期だ。95年1月17日に発生した大震災の被害総額は全体で約10兆円。神戸市の当時の年間予算が2・1兆円なので、神戸市の約5年分の予算がなくなるほどの災害で、当社の被害総額は1000億円強だった。

 製鉄所が一番大きな被害を受けたが、当社のコアである鉄鋼事業の再稼働を急いだ。特に溶鉱炉と、自動車メーカーが待ち望む「バネ用鋼線の圧延ライン」はとにかく1日でも早く復旧させたかった。1000億円を超える被害損失を「何年で返済するか」も大変な議論になったが、2年間でやろうと決定した。

 「神戸と共に復旧復興することに加え、その復興事業の目玉として製鉄所の中で電力卸(IPP)事業も新たに始めることにした。神戸製鉄所は4月2日、加古川製鉄所は4月16日、神戸本社も1月末から2月にかなり速いスピードで業務の進捗(しんちょく)に支障がないような体制が整った。

 復旧・復興については、まず神戸の地で復興する2年で損失を解消する」といった経営方針を早めに出した。これに応える形での従業員の頑張りや、また周囲の方々からの多大な支援もあった。そして製鉄所の設備を一部撤去し発電所をつくるなど、柔軟な発想や変化への対応、迅速で大胆な実行、組織の壁を越えた変革活動ができたことが大きな要因だった。

 昨年、当社は中長期経営ビジョン「KOBELCO VISION "G"」を策定した。今後もオンリーワンの徹底的な追求や海外を中心とした成長市場への進出などを推進していく。次の100年のキーワードは「グループ総合力の発揮」だ。事業体が持っている人材、情報、アイデア、知恵、価値観、知識は異なる。事業体の枠を越え、それらを有機的に結合することによって新たな価値を創造していきたい。


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