「不変と革新」

日立造船

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「人を尊重」で生き残る

日立造船が中国で手がけたゴミ焼却発電プラント

人に優しい会社

「人に優しい会社」。1966年(昭41)に日立造船へ入社した古川実会長は、新入社員のときにこう感じた。その印象は今も続いているという。本業の造船事業を02年に切り離すなど人員削減やリストラの経験がある企業に対して、こうした感覚は奇異かもしれない。だが、根幹に「人を尊重する」思いがあったからこそ、「数々の好不況の波を乗り越えて生き残ってこられた」と古川会長は断言する。
 
創業から133年たった日立造船は、業容を大きく変化させてきた。祖業の造船事業からは02年に撤退。13年度の売上高3300億円の大半はゴミ焼却プラントなどの環境・プラント事業が稼ぐ。グループの利益面は自動車関連などで使う中大型プレスを手がけるエイチアンドエフの貢献が大きい。
 
今後も環境変化に応じて事業を大胆に変化させる可能性は高い。それを支えるのは、古川会長いわく、人を尊重する姿勢であり、加えて創業者エドワード・ハズレット・ハンターから続く「変化のDNA」が反映しているという。

全力で走る

E・H・ハンターが唱えた精神は「CURAUM PERFICIO」。全力で走る、急いでなし遂げる、といった意味だ。日立造船の前身であり、彼が立ち上げた大阪鉄工所は、明治の国内造船業では珍しく政府と全く関わりがない。三菱重工業、川崎重工業などは官からの払い下げが母体。そうしたライバルと戦うには変化を恐れず全力で挑戦を続けることが必要だったのだろう。
 
創業から9年後の1890年には日本初の鋼船「球磨川丸」を建造、1908年には日本初のタンカー「虎丸」を建造するなど、当初から「日本初、世界初」を目指した挑戦者精神が旺盛だった。第二次大戦後にも民間貿易として戦後初の輸出船を受注。冷戦下で共産圏とのビジネスを始めたほか、93年に世界初の3連型シールド掘進機を完成させるなど"初物"は枚挙にいとまがない。
 
古川会長が振り返る歴史の中には、変化のDNAをフル活用しピンチをしのぐ日立造船の姿がある。好不況の波が激しい造船業から始まった日立造船は、安定した基盤ビジネス確立のために新事業を立ち上げ続けてきた。古川会長が入社した当時、売上高に占める造船の比率は7割。安定のため非造船の比率を5割にするという大目標があり、その一環で新事業を立ち上げてきたと話す。橋梁や圧力容器、精密機械など多くの事業を抱える日立造船。いまは事業を切り離したが、宿泊予約サイト「旅の窓口」や、杜仲茶ビジネスなどとにかくチャレンジする革新性も日立造船そのものと言える。

利益分かち合う

古川会長が言う「人に優しい会社」は、創業からの精神を支えるバックボーンとなっている。例えば、古川会長が社長に就任した際、どんなに苦しい状況でも「従業員と利益を分かち合う」ことを重要視した。「悪い時期が続いて従業員に十分報いることができなかった」と嘆くが、人を大事にする姿勢がなければ、貪欲に変化や革新を求めることはできなかったに違いない。

企業概要

1881年に英国・アイルランド州出身のE・H・ハンターが、大阪鉄工所として大阪安治川岸(現大阪市此花区)で創業。鉄鋼造船所として日本初の洋式捕鯨船やタンカーなどを建造するなど積極進取の姿勢で業容拡大した。1914年株式会社化。36年に日立製作所と資本提携して、43年に日立造船へ社名変更。財閥解体で日立製作所グループから離脱。65年に現在の主力事業となるゴミ焼却プラントの1号案件を完成。02年に造船事業を切り離し現在に至る。


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