「不変と革新」

森六ホールディングス

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"真面目な挑戦"で350年

鈴鹿工場のオープンハウス。9代森六郎社長(当時)がテープカットした(65年5月)

時代で変化

「創業時の350年前のことになると、資料は残っていない。ある程度わかるのは100年前からだ」―。森茂取締役相談役がこう話すほど、森六ホールディングスの歴史は長い。1663年に阿波(現在の徳島県)で藍と肥料の干鰯(ほしか)の商いを始め、明治に入ってからは時代の変化に合わせてインド産藍や合成染料もあつかった。戦後は化学品商社から自動車部品の製造へ参入。真面目な挑戦を重ねる同社の気質が、時代に適した変化を続けさせ、今日をつくっている。
 
しょうゆ製造や朝鮮半島で農業に取り組んだこともある。「振り返ると良くない結果に終わっていても、当時の人がそれぞれの決断に一生懸命にやったことがよかった。遊びにもお金をあまり使わなかった」と笑う。
 
とくに6代森六兵衛信好氏は江戸から明治に入った後の藍市場の混乱を勝ち抜いた「中興の祖」とされる人物。他に先んじた砂を混ぜない精藍の製造など、多くの事業を興した。「あの時代、同じことをやっていたら駄目になっていた。その中できちっと仕事をした人だ」。明文化されたような創業者の教えは残っていないというが、その後の2輪車や4輪車の樹脂部品への参入経緯を見ても、同じ真面目な挑戦という気質が息づいている。

「先見の明」

2輪車用部品から始まったホンダとの取引は、新たに販売を始めた樹脂の飛び込み営業をしたところ、おもしろいと気に入られて話が進んだ。「ただ、形になったのは、その後の努力が大きい」。次に4輪車用部品の製造も始めた。当時、4輪車生産拡大が明確になっていない状況。しかもホンダは後発メーカーだった。当時の社長は茂氏の祖父にあたる9代森六郎氏。「この時に決断したのは先見の明があった」。
 
従来の商社とはまったく異なる製造業への挑戦に、社内で反対の声もあったという。茂氏はまだ入社前で祖父の六郎氏から当時のことを聞くことはなかったが、「同じことだけをやっていてもつまらないと思ったのではないか。ただ、新しいことと言っても金融でもなかったのだろう」と思いをはせる。江戸から明治への変化と同様に当時も日本の産業が変わろうとし、企業もあり方も大きく変わる時だった。また4輪車は使用する樹脂部品の点数も多く、「楽しみも多かった」。

次の変化の時

今年、創業350年を迎え、森六は次の変化の時を迎えている。08年には持ち株会社体制に移行し、事業会社を自動車部品を製造する森六テクノロジーと化学品商社機能の森六ケミカルズの2社とした。12年には創業家以外から初めて三輪繁信氏が社長に就任した。「今は経営に口を出していない。言いたいことがないわけではないが、上に二人いるのは最悪だ」と一線を引く。ただ、今後を担う人たちに受け継いでほしい思いがある。
 
「基本的には真面目に。ただ同じことをやっていては取り残される。新しい挑戦をしていってほしい。すぐに結果がでなくても、めげずに」。次の変化が始まろうとしている。

企業概要

1663年に初代森安兵衛氏が阿波(徳島)で藍と干鰯を販売したことが始まり。25年後の88年に店舗「嶋屋」を設けた。ペリーが浦賀に来航した1853年に6代六兵衛信好氏が江戸に本格進出し、その後の藍市場の混乱を乗り越え、嶋屋を全国区にした。1909年に染料や工業薬品の輸入販売を開始。産業の近代化に合わせて塩化ビニールなどへ製品群が広がった。65年に三重県鈴鹿市に2輪・4輪部品を製造する鈴鹿工場を新設。08年に持ち株会社体制に移行した。


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