「不変と革新」

出光興産

HOME > 「不変と革新」 > 出光興産

引き継がれる「人間尊重」

「正しい経営をすることが店主の理念」と話す天坊相談役

1981年にこの世を去って三十数年。今また、出光興産の創業者、出光佐三氏が脚光を浴びている。火付け役は、作家・百田尚樹氏が佐三氏の半生を描いた小説『海賊とよばれた男』。昨年7月の刊行後、各書店でベストセラーとなり、9日には全国の書店員が選ぶ年の「本屋大賞」に輝いた。

生き様や言葉

今なお「店主」と呼ばれる佐三氏の生き様や言葉は、そのまま出光の企業理念となり引き継がれている。最たるものが「人間尊重」だ。「単に利益を目的にするのではなく、国家や社会、地域に貢献すること。また、事業を通して人間は成長し、また育てていくもの。資本はお金ではなく人。そうした店主の言葉を総括すると『人間尊重』になる」。現役時代の佐三氏を知る数少ない後継者の一人、天坊昭彦相談役(元会長・社長)は佐三氏の言葉をこう解釈し、後輩に伝えている。
 
最も分かりやすく体現するのが、終戦直後の「馘首(かくしゅ)してはならぬ」という言葉。敗戦ですべてを失い、借金と約1000人の社員しか残らなかった当時の出光にあって、佐三氏は一人も解雇しないことを宣言した。『海賊とよばれた男』第一章もこの場面から始まる。町が失業者であふれ、多くの企業が解雇を余儀なくされる中、「社員が会社の唯一の資本であり、今後の事業をつくる」とし、ラジオ修理から農漁業、酢・しょうゆ醸造、印刷などさまざまな仕事で食いぶちをつないだ。その後、石油業に復帰した出光はその人材の力によって高成長を遂げていく。

イラン石油買い付け契約成立の声明書を発表する佐三氏(1953年4月)

変わった人

64年に入社した天坊氏にとって、佐三氏の第一印象は「変わった人だな」。入社後に配属された福岡支店をしばしば訪れた佐三氏には「いろいろと一方的に言われ、何か反論すると、ガツンとやり返された」という思い出しかない。中堅社員が対象の店主教育に呼ばれても「話を聞くのはもう十分。具体的な仕事をさせて下さいと言って断った」ほどだ。それでも自らが社長に就任した時は「店主の理念があって助かった」と振り返る。最大の難事業だった株式上場を果たした際も「上場の理論武装でいちばん役に立ったのが、理念だった」と強調する。
 
93年に同社の借入金は2兆5000億円にも達した。退路を断った天坊氏は株式上場を決断。そこに立ちはだかったのも「上場しない」という佐三氏の理念だった。佐三氏は戦前の拝金主義の資本家を嫌い、資本市場からの資金調達を禁じていた。天坊氏は「正しい経営をすることが店主の理念。株式市場も店主が嫌っていた時代とは異なる。何より会社がなくなったら国家や社会、地域に貢献することも事業を通して人を育てていくこともできなくなる」と反対者を説得。佐三氏の理念を逆手に取って難事業を成し遂げ、終戦直後以来の危機を回避した。

次を見据えて

11年には無事、100周年を迎えた。「米国に工場ができて約20年。海外で店主の言葉に興味を持つ社員も出てきた。そろそろ経営理念を説き始めて良い時期かもしれない」。天坊氏はこう言って、海外シフトが避けられない次の100年の事業展開を見据える。

企業概要

1911年(明44)、福岡県門司市(現北九州市門司区)で設立。その後、中国大陸や朝鮮、台湾など海外を中心に事業を展開。終戦ですべての事業を失うが、49年に石油元売り業者の指定を受け、石油業に復帰。53年には英国政府などの妨害を乗り越え、イランから原油の輸入に成功。日章丸事件として世界中の注目を集める。57年、徳山製油所(山口県周南市)を稼働し、石油精製から販売までの一貫体制を構築。06年、反対する創業家らを説得し、株式上場を果たす。


ページの上へ