「不変と革新」

旭化成

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「挑戦するDNA」継続

創業初期のアンモニア合成工場の混合ガス圧縮機(延岡工場)

 旭化成は時代の要請に応じたモノづくりを通じて変化し続けてきた。この根底に流れるのは、社員一人ひとりの「挑戦するDNA」(伊藤一郎会長)だ。

起業家精神

 DNAの源流は、創業者である野口遵氏の起業精神にある。1906年、野口氏は個人事業として曾木電気を設立し、鹿児島県の川内川に水力発電所を建設。曾木電気は電力を利用して石灰窒素肥料までを一貫生産する日本窒素肥料に発展した。

 当時の化学工業に欠かせないアンモニアの合成工場を、水と空気に恵まれる宮崎・延岡に建設する。野口氏は「世界一の化学工場を日本の技術でつくる」ことを目標にしていた。

 31年に銅アンモニア法による人絹「ベンベルグ」を生産する延岡工場を分離し、延岡アンモニア絹絲を設立。その後も肥料から人絹に至る生活資料を廉価に供給する挑戦を続け、46年には旭化成工業に社名変更した。

三種の新規

 戦後は合成繊維の技術革新を皮切りに発展し、61年に就任した宮崎輝社長のもと、衣・食・住の総合化学メーカーを目指した。ナイロン・合成ゴム・建材の三種の新規のための設備投資も拡大。軽量気泡コンクリート「ヘーベル」に代表される建材事業、石油化学事業、住宅事業、エレクトロニクス事業、さらに医療事業、医薬品事業と新規事業に挑戦し、高度成長期の日本経済を代表する多角化企業として発展を続けた。

 90年代以降は、新規事業の育成から選択と集中にかじを切り、酒類事業などのリストラにも踏み切った。さまざまな事業の整理に約10年間を費やした。06年に新たな成長やチャレンジを軸とする新中期計画を打ち出し、グローバル化へ向けた反転攻勢をかけた。

意識を共有

 日本企業の多くが陥った失われた10年、20年に、旭化成のDNAも損なわれたのだろうか。この問いに対し、伊藤会長は「現場(の技術開発者ら)が挑戦する気概を守り続けている」と言い切る。リチウムイオン二次電池の開発に信念を持って取り組んだ吉野彰フェローら好例は多い。

 11年にスタートした新中期計画では「いのち」「くらし」といった分野を中心に社会への貢献を目指している。基本方針は「これからの社会の変化を先取りする」。グループの一人ひとりが、この意識を共有する「oneAK(ワン・アサヒ・カセイ)」をスローガンに掲げる。

 世界各地のグループ社員の研修を強化。海外企業のM&A(合併・買収)も積極化している。グローバル市場での挑戦が続いている。


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